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染井

撮影日 平成14年11月

前原市の大門の近くの県道すぐそばに残る神功皇后の三韓征伐当時の伝説です。以下の文章は現地にある前原市の案内板の内容です。

染井神話

この井戸の名を、染井の神水といい、糸島の古代が語られています。「日本書紀」は仲哀天皇の皇后を神功皇后(息長足姫尊)といいます。九州地方にクマソ一族が強い勢力を持っていたという時代。
大和朝廷の威力を広げるため、奈良を出発した天皇の軍隊は、クマソとの戦いで仲哀天皇が敵の矢にあたり陣中で亡くなられます。 クマソの勢力が強いのは、新羅(朝鮮半島東南部)の後押しがあるからだと判断され、玄界灘を渡り新羅へ軍を進めようとされました。
皇后の軍が怡土(イト)の山麓に本陣を置いて、滞在されたときは、大和の国を出て、すでに二年余りが過ぎていました。 仲哀天皇は亡くなられ、将兵は悲しみと、戦いの旅に疲れ果てて、故郷恋しさの思いが、全軍の心を重たく包んでいたのです。
皇后は、みずからも男装し、悲しみを乗り越える勇気を奮い立たせるため、将兵たちにひとつの奇蹟を祈ろうと思われました。 ある朝、皇后は将兵をつれて近くの泉に行かれ、一つの白生地のヨロイを手に高くさし上げて見せられました。
このヨロイは九州の朝倉の戦いで亡くなられた夫、仲哀天皇のまだ使われていないヨロイのひとつです。 「皆の者、われらは天皇の意志を継ぎ、今遠く海を渡り、新羅の国へ進もうとしている。昨夜不思議な神様のお告げが私に現れた。
もし、この泉でヨロイが赤く染まることがあれば、この戦いは必勝である。万一染まらなければ望みなし。早々に軍を引き返したがよいとのお告げ。
皆の者、心を静めて見つめるがよい。」 ヨロイは全軍が見守る中、静かに泉の中に沈められます。 一刻、二刻の後、再びゆっくりと引き上げられたヨロイに、奇蹟がおこりました。 真清水の泉から現れたヨロイは色も鮮やかな真紅色に染まってキラキラとしたたり、輝いているではありませんか。
『勝ちいくさだ。」皇后も将兵も吾を忘れて朝空に叫びました。 打ち沈んでいた全軍の士気が、奮い立ったのはもちろんです。
ヨロイはやがて近くの松の枝にかけて干されました。この松は、古来より「ヨロイかけの松」と称し見事な枝振りの巨樹となり、近くの染井神社の境内に生存したことを、「筑前国続風土記」に貝原益軒が書いています。
近年になりこの松は枯死し、その幹株が染井神社に保存されています。 この後、皇后の軍は西(二丈町)へ向かって出発し、深江の子負が原海岸で必勝と海路安全と安産を祈り二つの玉石を懐中にして船出されます。
軍が日本へ帰還の後、皇后が御出産されたのが応神天皇と神話は伝えます。 安産祈願に懐中された石をまつったのが、鎮懐石八幡宮です。軍が深江へ向かう途路「飯原」で駐屯された時、雉の鳴く声が琴の音のように響いたという吉兆の場所に雉琴神社が現存しています。
神功皇后に関する伝説神話は、瀬戸内海から北部九州沿岸のいたる所に、鞍かけ石、馬つなぎ石、櫛置き石、船出浜など数多くの遺跡が 点在します。染井神社は、神話を秘めた古式の雰囲気を今も山中にただよわせる社です。
福岡藩六代藩主、黒田継高はこの地に遊び神水を汲み、歌を献じています。

 濁りなく昔をうつす鏡とは けふぞ初めて三染井の水

前原市